2014年1月7日火曜日

年賀状

 日本に来て二年ちょっと。毎年年賀状を送る習慣がある。最初はただの「郷に入っては郷に従え」、いつのまに習慣になってしまった。
 送る相手は本当にバラバラ。両親、バイト先の人、お世話になった先生、友達、ネット上でよく話す人、毎年20枚ほど送る。大した数字ではないが、結構手間かかっちゃう。プリンターがないため、全部手書き、メッセージも出来るだけそれぞれ違うものにする。面倒くさいけど、こだわりみたいなものになって、みんなの返しもこっそり期待している。
 年賀状は本当に不思議なもの。なぜ不思議というと、その微妙な距離感は好き。正直にいうと、連絡を取ることは好きではない、むしろ嫌なタイプで、自ら友達に「最近はどう?元気?」を聞く人ではない。心を開いて話せる友達は片手で数えられる、長年付き合いの友達は一人いるかいない程度。そんな自分だが、毎年年賀状を送る。

 文化人類学者のジェレミー・ボワセベンによる対人距離ゾーニングモデルは面白い。彼は対人距離を親密ゾーン、実効ゾーン、名目ゾーン、外延ゾーンに分ける。同じく人類学者の木村忠正は彼の理論を用い、対人距離を定量化、日本社会のコミュニケーション空間の構造モデルを提出した。彼によると、音声通話など同期的コミュニケーションの対人距離感が少ないが、空気を読む圧力のレベルが高い。それに対して、「非同期的」「非侵襲的」なテキストメッセージの場合、時間軸の離散性を容易にコントロールでき、対人関係の社会心理的空間は微妙な距離感覚を得られる。
 年賀状はまさにそういう存在である。
 手紙というメディア、特定の相手と定まれた様式で、非同期でありながらちゃんと返しは必要となる。ツイッターというメディア、不特定の相手だが自由な様式、「テンションの共有」が得られた分に「親密さ」が損になった。これは大抵のオンラインサービスの特徴であろう。
 年賀状の場合、送る相手は特定だが、自由に選ばれる。非同期的で、自分にとってちょうどいい距離感が感じられる。何よりも、「長い間連絡してないが、私ちゃんとあなたのことを覚えている、あなた今元気かどうかを気になる」という隠しメッセージが送られるので、嬉しい。これこそずっと年賀状を送り続ける理由だと思う。
 
 時代が変わり、メディア=媒体はどんな形に変わってもその本質は変わらぬままである。情報の運び手として、人と人を結ぶ。我々は、見える見えないメディア=媒体の糸によって、それぞれ端点となり、線分になる。一人の場合、単なる直線で、寂しさは無限にまっすぐ伸びる。
 だから、メディア=媒体を通じてのコミュニケーションは常に双方向でなければならない。
 だから、返しの期待はひっそり存在する。

 私は一年間くらい福岡にいた。そこで、半年くらいバイトしたお店がある。去年福岡から離れて、お店の全員に年賀状を送ったけど、一つも返事がなかった。当時バイトしていた人はまだいるかどうか分からないから今年店長とオーナーだけ年賀状に送った、今の時点で返事はまだない。別に年賀状の返しが欲しいわけではないけど、「届いたよ」みたいな確認が欲しい。メールでも構わない。
 人生の思い通りにならない事十中八九だが、何よりも人情の薄さにちょっとがっかりしたかも。よそ者の自覚があるが、やはり、少しだけでもこの土地の人間と何らかの関係を結びたいな。
 来年、また年賀状送るかな。

 


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