2020年1月2日木曜日

「有用性」のない中国論と自分の話

 私は中華オタク用語について解説した時、とにかく「有用性」を心がけている。
 タイトルに「辞典」を入れたのも、辞書っぽいつくりをしたのもそれが原因。内容も、できるだけ客観的な論述にし、そこまでかしこまってないが書き方や言葉遣いも論文に寄せた。なぜこのような工夫をしないといけないかと、二つの理由がああ。一つは、「あなたの感想ですよね」的なコメントを避けたい。そしてもう一つ主要な理由は、「面白い」だけ売りにした中国記事(書き物)は読まれないと思うからだ。
 しかし、10年前の中国記事はそうじゃなかった。
 
 10年前、中国関係の記事は毒餃子、すぐ爆発する中国などネタ系の記事がほとんどで、「有用性」どころか、ある意味で「面白い」だけあって「消費」されるものであった。掲載も個人ブログやまとめサイトが主流だった。当時日本語がまだまだ流暢ではなかった私は頑張って中国はそうじゃない、事実は違うと日本語で書き込んで自分の主張を伝えようとした。
 ところが、最近、多分この四、五年の出来事だと思うが、中国関係の記事の色が少しずつ変化していた。中国の経済力やハイテック/IT業界に焦点を当て、これらについて紹介・解説する記事が年々増えている。「中国すげー」と本気で思って中国で起業したりする人もいるだろうと思うけど、もっと大半の日本人はおそらく、これからどうやって中国と付き合うかに困っているであろう。これら中国関係の記事はこのような悩みを解消する一つの手がかりであって、世の中のニーズを満たしていてたくさんの方に読まれて当然のことだ。
 
 このような変化は私が中国大学の日本語学科を想起した。それも10年前だったら、日本企業に入って安定した職を手に入れるために日本文化に全く興味のない人でも進学したりした。今日に至り、日本のメーカーが中国から次々と撤退して給料や福利厚生も悪くなる一方、それでも日本語を勉強したい、日本に行きたいと思う学生さんはたいてい日本文化が好きで、サブカルチャーなら何なら日本に関する趣味を持っている。
 「有用性」から脱却した日本語は依然人気で、「有用性」から脱却した中国論はどこまでの需要があるだろうか。そう考えると寂しくて寂しくて仕方がない。

 あとがきでも何回か書いているが、同人誌が書籍化できたのもすごくラッキーで今この時代のおかげだと思う。中国のGDPはずっと上がるにもいかないし、ITバブルも破裂せずずっと継続するわけではないし。中国論も、私個人も、いつかこの「有用性」が必要でなくなったらどうやって自分自身の価値を取り戻すか、そう考えて書くだけで涙が出てきそう。