2016年6月5日日曜日

自由について語るときに私の語ること

 「研究室の皆が目を見張り、『え?うそ?中国が日本より自由だと?』と声を上げた。」
 友達はそう語った。
 「日本人は信じられないかもしれないが、私が日本に四年暮らして確かにそう感じたのだ、中国の方は遥かに自由だ。」

 「日本が自由だ、そして中国は不自由だ。」
 おそらく80%以上の日本人はそう思う。中国人で、日本で長く暮らして、反論を言う時、大抵の日本人は原因を問わず、先に否定しようとする。まあ、それはそうだろう。そもそも最初から「自由」文脈が違うものだ。
 日本人が言う「自由」はいわゆる「言論の自由」や「出版の自由」など法律上で決められるもの。一方、中国人が言う「自由」はだいたい自分が置かれる環境の居心地の良さを示している。前提が違う日本人と中国人が「自由」について議論する時、当然ながら食い違いが生じてしまう。

 その認識のギャップを全面的に表面化したのはこちらのニュースである。
小学生で中国から日本に移住した女性が語る、日本で成長することの苦悩
少し抜粋すると、
「自分の生活習慣を変えざるを得なかった」
「私の生活や言動は小さな空間に圧縮され、みんな私に『女性としてこれはすべき、これはすべきでない』と言ってきた」 
  「郷に入っては郷に従え」、前者に関して仕方がない部分がけれども、後者は日本人にとって耳が痛い指摘だと思う。
 中国人が政府から押し付けられる「不自由」は確かに存在するが、感情的な、内面的な自由は持っている。日本のように、空気を読む圧力、集団行動の圧力など、いわゆる「同調圧力」は極めて少ないと考えられる。そしてその「同調圧力」は「言論の自由」を脅かしつつある。

 昨日の6月4日は天安門事件の日だった。予想の通り下記のような言論は散々見られる。
この手の言論、パッと見たら「まあそうでしょう」と思うかもしれないが、それを考えずに受け入れると大きな思い込みができてしまう。私は中国政府がしたことを反論するつもりがないし、五毛でもない。単純に「日本は自由だ」や「中国は自由だ」という言い方について皆さんが考えていただきたい。

 「話し手は誰だ。」
 「何についてそう言った。」
 「この文脈中の『自由』はどういう意味。」
 「実際のところ私はどう思った。」
 「他の可能性や見解はあるだろうか。」

 こういうことを考えるのは実際当たり前だよね。皆は情報リテラシーを持つ大人で、学校や会社でも「常に考える」と教われたはずだ。

 五年前、言論の自由への憧れを持ちながら来日した私は、検閲を受けない日本言論空間でインターネット民主主義の手かがりを探しようとした。しかし現実は失望的に、「同調圧力」は新たな「検閲」となり、私が見たかった熟論による市民の合意はどころか、レッテル貼りやネットによるヘイトスピーチが進み、ネットの力は変な方向で使われている。中国のネット空間への検閲も厳しくなる一方で、日中どっちも大変残念な現状になってしまう。
 少しでも今の日本社会をよくしたいなら、日本の「自由」や「同調圧力」を考えたほうがいいと思う。同調した結果、私たちは何を得られるか、何を失ってしまったか、同調とどう対面すべきなのか、もう一回検討しようじゃないか。